180の話

こんにちは

 

 

気温に適した服装というのが自分の中で思考し続けている問いです。

 

 

今回は教養の哲学編、第2回目の話。

 

まずは個人的キーワードから。

 

「脱げない鎧」

前回から挙げられていましたが、自分の中でどこか引っかかるというか気になる言葉。脱げない鎧という名の足かせ。自分を武装するために着たはずの知識という鎧が、結果的には自分に対して不利益を及ぼす呪いの装備になっているという本末転倒感。ドラクエにこんな名前のアイテムがあった気がする、ポケモン派の自分にはあまり語ることがありませんが。やくそうよりもきずぐすり。

 

「アレ化」

「ああ、アレね」といって自分の中にある少ない引き出しから知識を引っ張り出してきて結びつけようとする、いつもと同じようにというパターン化。ちゃっちゃと片づけてスマートさを演出しようとするのが悪い癖。そうして出した結果は大体浅くて詰めが甘いから大事なところでこぼす、往年のパターンが過ぎる。無理なハイペース、まさに早い思考だよなあ。

 

 

 上に書いた脱げない鎧、というか自分はTシャツぐらいの知識ですが、その概念を強く意識した時間でした。自身の中にある知識やそれらを用いて一度達した考えに固執してしまって離れられない。他の二人が出していく意見も自分の考えに寄せて考えてしまう、無理に繋げようとして喋るから整合性が取れているわけがないし、支離滅裂なこと言ってるなあと思いながら発言する場面が多々ありました。自覚できるレベルだったので、二人からしたらまじで何言ってんだコイツ状態だったんだろうというのは想像に難くないです。

 改めて自分は頑固親父予備軍だなと感じましたね。一軍の人を良いとも悪いとも言いませんが、少なくとも自分は二軍三軍のまま、ベンチのまま人生を終えたいというだけです。

 

須長先生の提示されていた例?のような問い(ex.利己主義が前提の社会だったら愛や尊敬はどうなるの、道徳倫理が虚構とするならば子どもへの教育はどうなるのかetc)に対しての考えを深めていく中で生まれたグループの結果としては、人間の行動は利己主義と道徳倫理で心にある天秤のバランスをとっているというもの。言語化難しすぎる。利己主義に偏ると孤独感に苛まれたり、精神的に疲弊してしまう。(ここの話をしていた時にメンバーの口から「離人症」とか「哲学的ゾンビ」のような専門的なワードがスッと出てきてて本当にすごいなって感動してました、自分に知識があればもっと深いところまで話ができていたんだろうなと。)道徳倫理に偏ると、本当に自分はこれでいいのかと息が詰まる。理性では利己主義が合理的ではわかっているしそのように動くこともあるけれど、孤独を避けようとしたり、人と居たいという感情的な部分で動いていることもある。その裁量はただの気分やたまにはといった不明確なもので人間臭さが残るといったところに落ち着きました。

 

誰がいたグループかは忘れてしまったんですが、利己主義の中に倫理や道徳があるというのを図示していたところがあって、個人的な意見と近いなあと思ったり。あくまで過程の一部だったし、自分の解釈違いという可能性も高いので全部が全部というわけではないんですが。利己主義の中にたまたま両者が得する関係に至ったものがあって、それらにたまたま道徳倫理と名前が付けられたというだけのこと。結果的には得する場合も損する場合もある、道徳倫理を通そうとするという行為も利己主義に基づくものだ、というのが個人的な意見としてまとまったものでした。乗っかった感が否めませんが結局は言いたいことだったので良しとします。

 

 

この2回で哲学に対する自身の考えがかなり変わりました。前回のブログやラジオでも触れたかなとは思うんですが、以前は哲学という学問にあまり明るい印象を持っていませんでした。揚げ足取りというか、一秒でも早く相手を論破してなんぼやみたいな偏見がどうもあって。実際に触れてみたら全然そんなことではなくて、こんなにも違うものだったのかと自身の見当違いさに悲しくなりました。相手の意見を受け止めてゆっくりと模索していく、「素潜り」と須長先生が表現していたのも今では少しわかるような気がします。先入観なんて180分ぽっちで180度ひっくり返される、百聞は一見に如かずとは言ったものですね。一番ひねくれてたのは自分でしたというオチ。

 

 

今回はこの辺で、では。

 

 

次回は古典。古典文法の暗記はからきしでしたが、話の展開や風流な言い回しはすごく好きです。現代との価値観が乖離しすぎていて軽く引けるというのも含めて。