180の話

こんにちは

 

 

気温に適した服装というのが自分の中で思考し続けている問いです。

 

 

今回は教養の哲学編、第2回目の話。

 

まずは個人的キーワードから。

 

「脱げない鎧」

前回から挙げられていましたが、自分の中でどこか引っかかるというか気になる言葉。脱げない鎧という名の足かせ。自分を武装するために着たはずの知識という鎧が、結果的には自分に対して不利益を及ぼす呪いの装備になっているという本末転倒感。ドラクエにこんな名前のアイテムがあった気がする、ポケモン派の自分にはあまり語ることがありませんが。やくそうよりもきずぐすり。

 

「アレ化」

「ああ、アレね」といって自分の中にある少ない引き出しから知識を引っ張り出してきて結びつけようとする、いつもと同じようにというパターン化。ちゃっちゃと片づけてスマートさを演出しようとするのが悪い癖。そうして出した結果は大体浅くて詰めが甘いから大事なところでこぼす、往年のパターンが過ぎる。無理なハイペース、まさに早い思考だよなあ。

 

 

 上に書いた脱げない鎧、というか自分はTシャツぐらいの知識ですが、その概念を強く意識した時間でした。自身の中にある知識やそれらを用いて一度達した考えに固執してしまって離れられない。他の二人が出していく意見も自分の考えに寄せて考えてしまう、無理に繋げようとして喋るから整合性が取れているわけがないし、支離滅裂なこと言ってるなあと思いながら発言する場面が多々ありました。自覚できるレベルだったので、二人からしたらまじで何言ってんだコイツ状態だったんだろうというのは想像に難くないです。

 改めて自分は頑固親父予備軍だなと感じましたね。一軍の人を良いとも悪いとも言いませんが、少なくとも自分は二軍三軍のまま、ベンチのまま人生を終えたいというだけです。

 

須長先生の提示されていた例?のような問い(ex.利己主義が前提の社会だったら愛や尊敬はどうなるの、道徳倫理が虚構とするならば子どもへの教育はどうなるのかetc)に対しての考えを深めていく中で生まれたグループの結果としては、人間の行動は利己主義と道徳倫理で心にある天秤のバランスをとっているというもの。言語化難しすぎる。利己主義に偏ると孤独感に苛まれたり、精神的に疲弊してしまう。(ここの話をしていた時にメンバーの口から「離人症」とか「哲学的ゾンビ」のような専門的なワードがスッと出てきてて本当にすごいなって感動してました、自分に知識があればもっと深いところまで話ができていたんだろうなと。)道徳倫理に偏ると、本当に自分はこれでいいのかと息が詰まる。理性では利己主義が合理的ではわかっているしそのように動くこともあるけれど、孤独を避けようとしたり、人と居たいという感情的な部分で動いていることもある。その裁量はただの気分やたまにはといった不明確なもので人間臭さが残るといったところに落ち着きました。

 

誰がいたグループかは忘れてしまったんですが、利己主義の中に倫理や道徳があるというのを図示していたところがあって、個人的な意見と近いなあと思ったり。あくまで過程の一部だったし、自分の解釈違いという可能性も高いので全部が全部というわけではないんですが。利己主義の中にたまたま両者が得する関係に至ったものがあって、それらにたまたま道徳倫理と名前が付けられたというだけのこと。結果的には得する場合も損する場合もある、道徳倫理を通そうとするという行為も利己主義に基づくものだ、というのが個人的な意見としてまとまったものでした。乗っかった感が否めませんが結局は言いたいことだったので良しとします。

 

 

この2回で哲学に対する自身の考えがかなり変わりました。前回のブログやラジオでも触れたかなとは思うんですが、以前は哲学という学問にあまり明るい印象を持っていませんでした。揚げ足取りというか、一秒でも早く相手を論破してなんぼやみたいな偏見がどうもあって。実際に触れてみたら全然そんなことではなくて、こんなにも違うものだったのかと自身の見当違いさに悲しくなりました。相手の意見を受け止めてゆっくりと模索していく、「素潜り」と須長先生が表現していたのも今では少しわかるような気がします。先入観なんて180分ぽっちで180度ひっくり返される、百聞は一見に如かずとは言ったものですね。一番ひねくれてたのは自分でしたというオチ。

 

 

今回はこの辺で、では。

 

 

次回は古典。古典文法の暗記はからきしでしたが、話の展開や風流な言い回しはすごく好きです。現代との価値観が乖離しすぎていて軽く引けるというのも含めて。

ヘリクツの話

こんにちは

 

 

髪がだいぶん伸びてきたのでうっとうしくなってきました。でも短すぎるとなんか落ち着かないのであんまり切りたくはない。いい塩梅を伝えるというものはなんとも難しいです。

 

 

今回は教養の哲学編、第1回目の話。

 

 

正直なところ、教養に関するブログはその分野毎に一つの成果としてまとめようと考えてました。自分の中で満足できる程度には整理できた、という状況になってからやっと重い腰を上げるという自身の考え方を鑑みると、所謂プロトタイプ的な思考が染みついてるよなあとつくづく思います。

 

このブログは作品ではなくあくまで備忘録、内省のためのコンテンツ。この大前提がすぐに頭から抜け落ちていってしまう。

 

一つのことをそれなりの長さ続けようとすると、本来の目的を忘れてたり解釈違いして見当違いな方向に外れていくっていうのは、去年のプロジェクトで痛感したはずなんだけどなあ。今回の場合は、というか大概の場合は自分のことだし、方向を調整するのも転換するのも周りに意見を求めるのも結局は自分なので意識していかないとなと思ったところです。

 

形として残して定期的に振り返らないと9割9分9厘忘れる。定期的に振り返らないと、また忘れて、同じこと繰り返して、似たり寄ったりのことを書くというのが考えられる中で最も可能性が高く、最低なパターン。

 

自分でも見返すのにひと苦労するような、ごちゃごちゃした殴り書きは自分の専売特許なところがあるので、あとは目的と手段を取り違えないようにだけ。

 

ということで、好奇心の研究のほうもちょくちょく残していきます。

 

 

以下本編。

 

自分の中での「哲学」へのイメージというのが、誤解を恐れずに言うと「屁理屈をこねくり回している学問」でした。賢すぎた先人たちの賢さが何周も回ったようなひねくれた思想、みたいな感じ。

 

現段階では多くの部分が解明されていないような天文学や医学の分野などでさえも、技術が進歩し続けてずーーっと研究が続けられればいつかは多くの部分が解明されていくんじゃないかと思います、ブラックホールの全貌とか癌の完全な治療法とか。どれほどの年月がかかるのかは想像もできないけど。つまりは見えていないだけで答えの存在する学問という例が挙げたかった。中学か高校の数学で「解なし」とかいうわけのわからん概念を習った気がするけど、考えたことの前提が壊れるので今回は見逃してあげます。

この一方で今回扱う哲学に関しては正解がない。仮に寿命で死ぬまで不眠不休で考え続けたとしても、自分なりの答えにしか至ることは出来ず、一般的な正解にはたどり着けない。一般的な正解がないから。ないものはない、至極簡単。

 

新しい知識を探求し続ける「研究」と既存の知識を様々な視点から深めていく「対話」とでは毛色の異なる不可侵な存在なのかなと思います。

 

お話いただいた須長さんの話の中で、恐らく最もミソな部分で難しすぎたのが「異化」という考え方。なじみのあるものをなじみのないものにするというのが異化という考え方。異化をするためにはつまずき、つまりきっかけを経験することで問いを立てていくというのが流れなのですがこれが頭の中の「???」の主要因になっていて。自分の中の常識や知識を根底からひっくり返したり、大きな疑問を抱かせるような揺さぶるという事象にあった実感ないからだと思います。というか知らず知らずのうちにバイアスがかかっていて、既存の知識へと無理やりにこじつけて結び付けているというのが近いのかな。

 

だからこそ不安定な状況で粘る「否定的受容力」だったり、早とちりしすぎのミスを減らすための「遅い思考」が重要になってくるのか。これは早い思考になってるような気もするけど。

 

対話の議題は「利己主義」

人間がとるすべての行動は自分自身のためである、というもの。自分は筋の通った考え方だと思います、対には利他的という道徳や倫理を持ってきた考えがありますがただの感情論にしかならないのではとなるから。明文化されているわけでもなく、育った環境や文化に大きく依存をするものよりも、よっぽど一貫性を持っているんじゃないのか。結局は道徳や倫理の名のもとに行動するということ自体、自身の持つ道徳心や倫理感を通すためというエゴに帰着するし、それは情愛や恩義を通したい、詰まるところの自己を満たすといった自己信念と何が違うのかが明確に表現も理解もできない。個人の考えとしてはこんなところで、対話の中で出てきた、集団生活を円滑にしていくためのツールという考え方も面白い着眼点だなと。群れや社会を築かずに一匹で生きている動物であれば無用な考え方ですからね、自分のことを一番に考えないと死ぬだけだろうし。

 

こうやって文字に起こして言語化していくのですら満足にできないのに、話し合いの中で突発的に出せるわけもなく。どうやったらまとめられるのかよりも、どうやったら伝えられるのかに重きを置くことを意識したい。今回は話す時間もだいぶ短かったので次回はもう少しゆっくりと、急がない対話をしてみたいです。

 

 

対話に対する所感や哲学に触れてみての感想はまた来週に。

 

 

今回はこの辺で、では。

 

 

体力も肺活量も量をこなしてなんぼなのでやっていかねば、屁理屈で正当化して逃げるのはよくない。

不特定多数のあなたへ

こんにちは

 

 

森田ゼミ所属のある3年生のゼミ紹介ブログです。とっつきやすいようにフランクに、話してる感じで正直に書きます。有用な情報は4年の先輩方や他の3年が書いてくれていると思うので。

(ちょいちょい加筆していくかも。)

自分のを全部読むのがめんどくさい人は下の方の総括ってところだけでもいいです。

 


この記事を読んでくれている2年生のあなたには将来の目標、夢というものはあるでしょうか。

 

夢の実現性とか、そういったリアルな話はひとまず抜きにして考えてみてください。

 

海賊王、火影、黄金聖闘士、プロヒーロー、柱、地上最強の生物etc。


夢が広がりますね。


「少年の心をいつまでも忘れない」という僕の小さな夢は現在進行形で叶えています。

 

のっけから違う話をするのは話題が逸れたと言えるのでしょうか。

とりあえず本題のゼミ選びの話題に戻ります。

 

 

とりあえず、あなたの目標に対してやるべきことやりたいことに近いことをしているゼミや、自分に近い考え方を持っているっぽい先生を探してみてください。つまるところ気になるゼミです。探したけどそんなゼミねえよ、全部気に入らんしつまらんわって人は無理に入らなくてもいいんです。必修なわけでもないし、ゼミに入らなければ卒論と無縁の大学生4年生になれます。学内のコミュニティに拘る必要性は皆無です、学外活動に力を入れてみるのも選択肢のひとつとしては十二分に足ります。


せっかくの大学生だからゼミに入る、それならせっかくの大学生だから自由な時間を活用するでもいいじゃないですか。よくない大人に騙されないようにねっていうアドバイスをするだけです。

 


夢が明確にある、将来のビジョンを見据えているという人にとってゼミに所属するという行為は夢への遠回りすることに繋がると、正直なところ思います。活動に力を入れているゼミほどゼミの時間外にやることも必然的に多くなってきて、やりたいことやるべきことに対して割ける時間は少なからず減ってくるから。それでも、部活してバイトしてみたいな人もいるし、他にも色々勉強やらインターンやらと手広くやってる人もいるので、そこは個人のキャパというかうまく回せるかの管理能力次第になるかも。

目標が「希望職種に就く!」なら有利な資格を取りたいなら講座に行けばいいし、「社長になりたい!」なら経営を勉強して起業すればいいじゃんって言います。資格はあるに越したことはないし、学生社長もそこまで珍しくないですからね。目標までの道中で必要なものを必要な分だけ拾っていくのが1番話が早くないですか、ストイックというかなんというか。


遠回りすることをさも悪いことのように書いたものの、最速最短直線ルートが最適解とも限らないのではというのが自分の考え。押し付けるつもりは毛頭ありません。自身のゴールがぼやけているからこそ、そこに達するまでに立ち寄った先で聞いた話が体験が〜的な棚ぼたへの期待ですね。ここに関しては個人の見解が最たるところなのであまり深く書いても仕方ないところ。


専門分野に関しては圧倒的な腕、知識量があるけどその他のことはなーんにも知らない。それでも恐らくは、大半の分野で食いっぱぐれることはまあないでしょう。 

 

でもそんなんほんまにおもろいすか?って話です。なにも知らないの「なにも」が定義する範囲が曖昧すぎるので説得力がなさすぎますが。

 


明確な目標がまだないよって人を置き去りにしてきましたが、むしろそういう人にこそゼミに入る価値があると思います。なぜならいろいろなことに繋がるきっかけになる可能性があるから。あくまで可能性に過ぎないので、どう転んで発展するかはわからないけど。知らないということは可能性を狭めること、というのが僕の持論です。それが現実的かどうかは置いておいてとしてもね。

 

 

少し方向転換して1年前の自分のことを思い出してみると、ゼミ選びで悩まなかったと言えるほどに即決してました。


特段これやりたいなーってことが特にない、コミュ力が少し欠落しているただの一般男子大学2年生。


説明を一通り読んで森田ゼミのオンライン説明会に参加して、先輩のブログめちゃくちゃ読んで森田ゼミに志望書と自己PRを出しました。理由は面白そうだったから、ほんと、単純に。先生と話した雰囲気とか無意識に惹かれている部分があったのかもしれませんが、正直あまり覚えてないです。引っ張り出して挙げるならブログの存在かな、コトバというものを重要視しているのがいいなあと思ってたのは間違いないので。


実体験がこんな感じなのでロクなことは言えませんが、ゼミを選ぶなら自分の直感を信用してみてるの勧めます。友達と一緒に入ったけど自分には合わなかったじゃ遅いし、そんな他責的な考えは身を滅ぼすだけじゃない?。合わない場所に2年半も身を置くとか、少なくとも自分には無理です。苦痛すぎて速攻で行かなくなるのが目に見える。

 


あと、応募人数の関係で選考が行われるゼミもあると思いますが倍率を聞いて希望ゼミを諦めないでほしいです。自身を超過大評価して基本スペック中の下、下の上な僕でも実際通ってます、なぜ採っていただけたのかは今でもよく分かってません。最後は気持ちなので当たって砕けろの精神で、面接なり志望書なり伝える努力をしてみてください。ゼミ選考に落ちたら強制退学になるシステムに改悪されてたら妥協していいと思うけどね。

 

 

今の2年生にはゼミ選びにおいて研究室巡りができる、という自分たちには持つことすら許されなかった大きい権利を持ってます。行使するもしないも自由ですが、捨ておくのは勿体ないと断言します。僕たち学生はお客さんではないので先生方は迎えには来てくれませんが、最低限の礼儀礼節をわきまえて話を聞きに行けば邪険にされることはない、来る者拒まず去る者追わずなスタンス、のハズ。お互い人間なので合う合わないはやっぱりあります。最初はあんまりなイメージだったけど話すうちに仲良くなってた、みたいな経験ありませんか。説明文や先輩からの話だけでは得られる情報量にどうしても限界があります。

たとえいくつでも少しでも、気になったら行って話を聞いてみて。僕の場合は気になるゼミがたまたま1個だっただけです。

 

 

総括。自分の目標がまだ見えてない人ほどゼミに入る価値がある、けどあくまで選択肢の1つに過ぎないからよく考えてみて。あと倍率で諦めるとかしょうもないことすんな。以上です。

 

 

陳腐で焼き回しでありふれた約3000字、お付き合いいただきありがとうございました。

  

たかだか1年早く入学しただけでなに偉そうにぬかしてんねんと思われてるかもしれません。全くもってその通り、反論の余地無し、ぐうの音もでないでございます。そこらへんを歩いてる3年生が「自分は自分は〜」って話してんな程度に思ってもらえれば。


綺麗にまとまった文章、とはお世辞にも言えないのでなんとなくでも汲んでもらえたなら嬉しい限りです。

 

 

 

今回はこの辺で、では。

 

 

 

卒論はこの約7倍?の文字数。2年後の僕は書き終えることが出来ているのでしょうか。

処世術の話

こんにちは

 

 

気付いたら桜が散ってました。ここ数年ゆっくり見ていない気がする。来年は遠くへ見に行こう。

 

 

今回は田川市にある「いいかねpalette」でのゼミ合宿の話。

 

筑豊ナンバーの地方ということで、内心ビビりながら田川に向かっていましたが杞憂でした。平日の午前というのが大きかったのかな、のんびり流せてすごく良いところでした。いいかねpaletteの建物内には○年×組ってかいてある看板?がかかってたり、給食を運ぶエレベーターみたいなのがそのまま残ってて小学生に戻ったような気分に。個人的に苦手な言い回しなのでずっと避けてきましたが今回は言わせてください、エモかった。教室、階段、踊り場、廊下、ええなあ。

 

 

音声コンテンツを作る合宿ということで、実際に音声コンテンツに関わっていらっしゃるお二組にお話しをいただいた。

 

 

1日目、2日目の両日ともにお話しいただいたのは、ポッドキャストで「コテンラジオ」を配信されている樋口さん。

 

目の前に日本一を獲った人がいて、自分たちに向けて話してくれていたという事実。ナチュラルな感じに始まったからその意識が薄れてましたが、よくよく考えたらすごいことじゃないですか。 

 

樋口さんのお話での「知識を入れ続けてもいつかは尽きる、だから物の捉え方や掘り下げる力が大事」というのはとても納得でき、とても共感できた。胸を張って言えるほどのインプットしているわけでもないし、アウトプットする場面も無いに等しいので納得も共感もおこがましいとは思うけれど。様々な面から触れてみて、さらに突っ込んでいくというのは幅広い知識がないと成立しないから、自分の知識に対する考え方に近かったです。

 

そもそも喋ることと書くことでは、アウトプットする量もそれに要する頭の瞬間的な回転も違いすぎるんじゃないかと素人には思えてしまう。樋口さんのされている編集できる収録という形態では、不要な「えーと」「あのー」のような繋ぎをテンポをよくするために削ることはできても、増やすことは難しいんじゃないかな。(別撮りを差し替えることもできるけど、うーん。)書くというアウトプットであれば、半永久的に削ったり増やしたり書きなおして推敲できるという利点ともとれる作業があるから。そこに優劣があるというわけではないんですけどね。

 

雑談っぽい部分で樋口さんがおっしゃっていた、目に入った一単語をテーマにずっと話せるというのは自分の文章を書く練習にも使えるなと思ったり。 

 

「自己の整理」という点においては話すことも書くことも通う部分があるようです。最近完結した作品でもの中でも言われてたやつですね。終劇という表現のほうが適切かも。

 

 

また、1日目には西日本新聞社の方々にもお話しいただいた。

 

こちらは樋口さんとは毛色が違い、あくまでメインの新聞の販促というのが正直な第一印象。 賞味期限の短く鮮度が求められる情報を取り扱う新聞と、時間にとらわれない音声コンテンツを「フローとストック」と表されていた。文字と音声の相性や互換性、ラジオである意味などをしっかりと考えられていて、最初と最後のイメージが180度変わっていた。あと、仕事と関係ない人に会いに行く行動力、すごくないですか。

 

自分の中ではいつのまにか合宿の本旨から逸れはじめ、「音声」と「文章」というコンテンツの比較に考えがすり替わってました。コピーロボットにも、どこでもドアにも、タイムマシンにもなりえるコンテンツが共通して良いといえるのかな。

 

 

ほとんど会う機会のなかったチーム以外のゼミ生と過ごした2日間の感想。おしゃべりな人、面倒見がいい人、ずっとニコニコしてる人、イマイチつかみどころのない人、いろいろな人がいるーって感じでした。もちろん全部褒めてます。

 

この挙げた部分ってその人の持つ処世術にあたるのかなと考えたり。意識的、打算的な考え抜きの無意識な部分だとしても、相手にマイナスイメージを与えることはまずないので、こういったある種のコミュニケーションスキルはすごい羨ましく思うところ。今回の音声コンテンツというのも「喋る」というコミュニケーションの一つの形。不愛想で喋らないって相手に与える印象は最悪だとは常々思ってるんです、思いはするものの一朝一夕で変えられることでもないから難しくて、そして気が滅入る。

 

喋りの練習はスマホに向かって一人で話すのがいいと先生方はおっしゃっていたものの、自分の声を聴くという行為のハードルは自撮りと同じくらいに高い。リミッターを外すにはアルコールが一番手っ取り早いとは思うけど、そういうわけにもいかないですから。

 

 

終始フワフワしていましたが今回はこの辺で、では。

3年生でもブログ書いていきましょう。

 

 

面白そう、やってみたいと思えることを見つけられた春休みだった。今はミミズの這ったような字をメモ帳に殴り書きするのが精一杯だな。

ありがとうの話

こんにちは

 

 

暖かい日も増えてきてこのまま春になってくれればと思う今日この頃。花粉はやめて。

 

 

今回は福岡情報ビジネスセンターさんへのプレゼンの話。

一応、一つの区切り毎にブログは書いていたのでその間の部分の補完もできればと。

 

 

 

昨年の9月、2年後期のゼミで取り組む内容をラジオ作成、就活準備、企業連携という選択肢の中から自分は企業連携を選んだ。

 

今のまま自分のことを見つめなおしても空っぽさに嫌気がさして心が折れると思ったり、ただ単純に自分の声が好きではないといった、なかなかに純粋とは言えない考えから企業連携を選んだ。もちろん企業連携や他2つから得られるものや魅力を感じてはいたものの、ただその過程から逃げたというだけの話。自身の安っぽい自尊心を守るための自己防衛だったのかもしれない。こんな風に物事を引き算的に考えるのもやめたい。

 

 

インタビューやスライド作成など4人で共同して行う作業がほとんどだった中で、9割方自分で取り組んだのが序盤に行ったアンケート。適切な言い回しかは怪しいが、インタビューをお願いする先輩を決めるための判断材料、事前調査として行うことに。アンケート作成を自ら引き受けたのは、チームに対して全然役に立てていないんじゃという引け目を感じていたというのが正直大きかった。実際に作ってみて先生にチェックしてもらう中で「やる目的が見えてこない」「ネットで調べて出るようなことはアンケートをしなくてもいい」「UX的にどうなの」など多くの指摘をもらった。(簡単にまとめたせいで冷たく見えるがもっと細かく丁寧にいただいた)全てといっていいほど見事に図星で確かにそうだようなあと思いつつ改良を進めた。おかげさまで「わかりやすく簡潔に、相手に時間をとらせない」を意識したアンケートを作ることができた。このプロジェクトにおいての自分の実績の一つと胸を張って言える。

 

 

本番では原稿を読み上げる感を無くしたくてカメラに向かって話すように意識しようと考えていた。今回はオンラインだったで上半身しか映らないので原稿に多少目を落としつつの発表でも違和感は小さいが、オフラインだとそういうわけにはいかないだろうからという意味での練習もかねて。しかし自分の番がまわってきてさあ喋るぞとなった時にPCの画面を見ると、ZOOMのギャラリービューでスライドが一部隠れているという状態。やむを得ずスマホをちらちらスライドを確認しつつ自分の番を終えた。つまりは準備不足。スライドを流しつつという練習はしていたものの本番のツールを想定して、ではなかった。滞りなくプレゼンは終えられたものの少ししこりのが残る形になってしまった。それでもプレゼン後には、企業の武藤様からはこちらの提案に対して前向きなコメントをいただけて、その一言だけでもこの半年間取り組んできてよかったなと思えた。

 

 

全体的な反省としては、お礼の連絡がきちんとできていなかったこと。協力いただいたその場でのことではなく、そのあとのメールやLINEでの連絡。「ありがとう」なんて幼稚園児でも言えるようなことができない大学生って何なんだろうって自分に対して強い嫌悪感を抱く。4年生の卒論のインタビューに協力させていただいたときに、わずか10分程度の時間であったにも関わらず終了後には丁寧なお礼のメールをいただいた。そのあとも、先生を通じてのグループLINEへの連絡もあった。2コ下の後輩にわざわざここまで、とも思ったが社会に出たらこういったお礼の連絡というのは、特筆するまでもないような至極当然のことなのだろう。

 

多くの4年生の先輩方には自分たちのインタビューに一時間近く付き合っていただいていたにも関わらず、その場の「ありがとうございました」の一言で済ませてしまっていたのはとても失礼なことをしてしまったと今頃になって思う。「人に時間を割いてもらう」ということの重みをとても感じる機会となった。今回のインタビュー(アンケートも)に関しては、こちらの一方的なお願いを100%の善意でご協力いただいていたわけで、時間を奪っていたともいえる。目上目下に関わらず、なにかしてもらったら「ありがとう」、当たり前だが大事なことだと改めて意識した。

 

 

 

話が飛び飛びではあるものの書いてこなかった隙間の部分も含め、感じたことを時系列順に残してみました。赤裸々過ぎたかな、でも一歩も二歩も引きすぎる自分を前に出していく第一歩目として受け止めます。

 

 

「もう一回似たようなをやれって言われたら確実に今回より早くできるようになっている。」

 

本当にその通りだと思います。

 

 

一つのことをやり遂げた達成感。

 

協力していただいたすべての方に感謝。

 

 

今回はこの辺で。

 

 

 

積読解消の春休みにします。

 

 このブログも一種のポートフォリオなのかな。

鬼に笑われる話

こんにちは。

 

 

2020年も残り24時間を切りました。雪も降ってて冬だぜ!って感じがすごい。

 

2020年の総括という名の書きたいことだけを書くだけの回です。

 

 

啖呵を切るだけ切ってしないできないのが自分。

 今まで20年生きてきて唯一自分のわかってることです。

 

良いことも悪いことも特筆するようなことがない。

毎年のことすぎてもはや悲観も自己嫌悪もする気が起きません。

 

 

自分のことが嫌いっていう感情は自己嫌悪という言葉で表されがちですね。自己嫌悪っていうのは「こんなこと」もできない自分をうらめしく思う気持ち。その「こんなこと」というハードルの高さは個人差が出やすい部分でもあります。 日常のちょっとした一場面から、やりたいことに対する考え方とか。自分の場合は半端に我が強くて半端に完璧主義の気があるので、無意識のうちに平均よりもハードルを高めに設定しているんだと思います。一方で自分のステータスは経験上平均よりも低いので、当然超えることは難しいです。そのハードルに引っかかる度に、次のハードルを上げて越えることでその劣等感を埋めようとしてまた引っかかる。以下ループ。書いてて思ったけど流れがギャンブル依存と似てるな。

 

そんな「こんなこと」ができないハードルを越えられない自分を見ないように、その場しのぎの誤魔化しで自分のことを間違っても買いかぶらないようにしてきたけど、自分のことすらほとんど知らないのに相手に評価してもらおう認めてもらおうとか虫が良すぎる。自分本位でわがままなガキのまんま。

 

「自己肯定感を高めるためには成功体験を重ねること」とかよく言いますが、僕は成功と失敗の区分はどこやねんってなります。自分が納得できれば成功?周りに認めてもらえなければ失敗?その成功か失敗かという絶対的な評価方法がこそが結果的には自分を貶める結果になるように思います。自分なりの充足感の得方を探さないといけない。

 

へらへらしてのらりくらり生きてて楽さを優先に逃げてきました。角が立たないようにってやつです。楽と楽しいとまた別物ですが。

 

 

 2021年の目標は質の高い言葉選びや文章作りが少しでもできるようになること。

(他にもいろいろ考えてはいますが書かないでおきます、シンプルに気恥ずかしいし考えるだけで終わっちゃいそうなので)

 

言葉は数値化が難しいものなので評価は個人の主観に委ねられます。質の良し悪しが絶対的ではなくて相対的になるからこそおもしろいんですよね。

 

だからこそ高校までの作文を書く場面で添削を受けるのが大嫌いでした。文法や語彙の誤りとかはわかるんですが、言い回しや考え方にまで半強制的な指導入れてきて。参考までにってことであればまだわかるんですが。受験で通るための小論文や根拠が求められる学術的な論文でもないのに、何で一人の人間の主観をあたかも正解かのようにしてゴチャゴチャ言われないかんのって毎度思ってました。自分の考えたことを率直に書いてるのに先生の言う通りに文を変えたらそれは自分の文じゃなくて先生の文になっちゃうので。良い評価を受けるために胡麻すりの文かいても何も面白くない。黙って従うのが世渡り上手なんだと思いますが当時の僕には無理でした。

 

話が逸れすぎました。本題に戻りますが「質の高いものを作るためには質の高いものを知れ」という言葉の通り質の高いものに触れたいところですが、まずは自身の下地を作るところから始めてみます。言葉というのは日常のどこにでも転がっているものなので。

 

色々御託を並べてみましたが、自分の言葉を胸張って好きといえるようになりたいということです。今は自分の文を読み返すことが嫌いなことランキングで不動の表彰台。

 

来年のことどころか自分語りすぎて鬼さんに笑われちゃいますね。ネットの海にぶん投げている以上は誰に笑われているかはわからないけれど。

 

 

今回はこの辺で。よいお年を。

 

 

あと来年は車を買うのも視野に入る年齢に。保険はかなり安くなるけど乗りたい車体が高い。ぴえん。

 

 

一歩進んで二歩下がる話

こんにちは

 

 

約1か月ぶりのブログ。先伸ばし続けて1か月。1年の12分の1。その間に3回もゼミあったのにね。はあ。

 

 

今回は14回目のゼミの話。全体通しての話も軽めに。すべてが終わってからがベストなんだろうけど、まず一区切りつけたいと思ったので今感じていることを書いておきます。

次回はゼミ内での発表?共有?なので内容のほうも一区切りつけない行けない。

 

 

序盤に決めた大まかな流れとしてはアンケートとって、インタビューして、その内容まとめて完成。そして企業さんに発表。その骨組みにそれぞれ肉付けしていくだけのはずなのに何回も止まったり立ち返ったり。メール対応に着目するなんて取り組み始めのころは思いもしなかったからやってみてわかることがあるという経験値にもなったかな。周りの同年代と比べてしまえば周回遅れな気づきかもだけど、急がば回れだから。

 

プロジェクト自体は少しずつでも確実に進んでいるはずなのに、その実感は時間のなさからくる焦燥感や自分の意見すら満足に言えない無能感に板挟みされて押しつぶされてる。 

 

1歩進んで2歩下がるついでにボディブローな感じ。

 

 

自分のしてたアンケートのフォーム作成も自分ではそれなりにできたつもりでも、先生からの助言を多くもらう結果に。卒論関係での4年生からのアンケートでは中身の完成度やUX、前後の対応等すべてにおいてレベルの違いを見せつけられてしまった。協力してもらったら「ありがとう」。そんな一言も送れていないっていうのは2年生だからしょうがないの一言では片づけられない段階の話。

 

聞く内容の性質上仕方ないのかもしれないけどプライベートなことを聞く質問も含んでいて、土足でずかずか押し入られているように感じさせていたところがあったのかもしれない。まずはインターフォンを鳴らさんかいと。 

 

 

今はカスタマージャーマニーマップ作りを進めないと。ペルソナはピンポイントで集めた情報を映したリアルな一人間なのか、多くの情報から想像されるリアリティある仮説の人間なのか。どちらとするか次第でもまた変わりそう。

 

 

今回はこの辺で。

 

 

年末に2020年を振り返るブログ書く。何があっても書く。